ひきこもり経験者の日記連載『すぐそこにあること』

ひきこもり経験者のブログ「すぐそこにあること」

不登校になってかわる周囲の態度

「よく来たね!」最近これを言われるとたまらなく嬉しい。これは僕がひきこもりを受け入れた証だ。


〇1番嫌だった事


僕が不登校だったころ、一番嫌だったのは「不登校扱い」されることだった。僕が学校に通ってるとき「不登校」はみじめな落ちこぼれという印象が強かったためだ。多くの人は学校に行って少しでもいい成績をとることが正義であり正しい道だと信じて疑わない。学校以外の選択肢がないせいで、学校に行っていい成績を修めるしかないのだ。
 

 そういった世の中の価値観と相反するのが不登校である。だから不登校になった人は自身の不登校というレッテルを極端に嫌がる。当然、僕もその中の一人だった。
 

 僕が「不登校」になったのはおおよそ25年前、ようやく「登校拒否」から「不登校」という呼称にかわりつつある時代で、現在のように不登校理解が進んでいなかったことも大きなファクターだろう。
 
〇馬鹿にされた事実


今でも記憶にあるのは、教育研究所という公的な不登校支援施設の近くまで連れていかれた時、教育研究所のスタッフが走って僕が乗ってる車まできて「よく来たね!」と言って拍手したことだ。なぜ拍手されなければいけないのか疑問に思い、非常に不愉快だった。その後、僕は家庭教師に感化されマスコミ志望になり、大学進学を志し、大手予備校で学習したかったのだが、学力が伴わなかったため大検予備校へ見学にいくことにした。当時の年齢は確か20歳くらいだったと思う。個別指導を希望するにあたり自宅の住所、電話番号など個人情報を予備校指定の用紙に記入し、校内を見学し、帰宅しようとおもった矢先に、「新舛さんのお母様に連絡しました」と伝えられた。20歳の大人が予備校に見学にいくだけで、なぜ母親に連絡し報告されなければならないのか。またしても「不登校扱い」されたのかと残念に感じた。その後、母にどんな電話だったのか尋ねたら、「新舛君が一人で学校へ見学にきましたよ」という内容だったらしい。馬鹿にされた対応に腹が立ったのを今でも鮮明に覚えている。結局他に通える場もなく、仕方なくその学校に通ったのだが、最初にこのような不登校扱いをされたこともあり、担当の教師に不登校扱いをするな!と何度も抗議した。しかし、「こういった対応は不登校生徒が通わない予備校でもしている」と講師にいわれた。それでも「不登校扱い」しているかもしれないといった疑念は消えなかった。
 
 
〇偏差値教育


結局僕は志望校に合格せず、滑り止めの名前すら読めない名もない大学に合格した。その後、精神疾患で通えなくなり、ひきこもり状態に突入した。大学受験で大手予備校に通い、偏差値教育を受けた僕は、いい学校に入って大手に入社することが唯一の   幸せだと思っていた。そのため最初の支援機関に行ったとき、就職は大手じゃないと嫌です。そんな実現しないことを何度も口にした。
 
〇15年の歳月


その後、地道に活動し、ひきこもり理解の市民活動(ひきこもり発信プロジェクト)をひと月に一回逗子で展開している。僕はひきこもりを受け入れるまで15年間もかかった。そして冒頭の言葉を素直に受け入れるようになった。そのため他者に不登校、ひきこもりを受け入れてほしいと思ってしまうが、僕も不登校、ひきこもりを受け入れられない時期があったのだ。