ひきこもり経験者の日記連載『すぐそこにあること』

ひきこもり経験者のブログ「すぐそこにあること」

人生はいつか終わる、だから全力で生きる

私は死んだ
 
今年1月いつものように体調が悪かった
 
外出が嫌いな私にとって、セミナーも、ミーティングもオンラインになって楽しくて、楽しくて幸せだった
 
それでも、現実は、「行動」しないと変えられない
 
行動しよう
 
行動しよう
 
行動しよう
 
そう思ってた
 
その矢先、体が動かなくなった。
 
少し休めば治るだろうと思い
 
1日
 
1日
 
全く体が動かない
 
セミナーで習った素晴らしいアイディアも「行動」しないと進まない
 
助成金を取りたいと思っても
 
YouTubeで発信したいと思っても
 
Twitterの勉強して、行動しようと思っても
 
体が動かなかった
 
3ヶ月
 
私は死んだように、ただ、ベットの上だった
 
私が主催するセミナーだけは「仕事」だから努力した
それでも、やりたい、やらなければならないことが出来なかった
 
そして、いつか死ぬと覚悟した
 
動かない体の中、読書したり、有料のブログを読んで、そのうち動くであろう体に備え努力した
 
今まで、申し込みたかった個別セッションやセミナーも、元気になれば申し込みしようと思った
 
人っていつかこうして体が動かなくなるんだなって思ったから
 
ようやく元気になって、やりたいことを思いっきりやった。
 
お金がないのに、高めのセミナーに申し込んでみたり、話をしてみたかった憧れの人に勇気を出して連絡してみた
 
動いていると憧れの人と一緒に講演出来るような機会を貰った
 
そして、今日も素晴らしい出来事に生きてて良かった。
 
心からそう思えた。
 
それは、支えてくれた家族、周囲の暖かい人達
 
すぐ、ヤケになって、当たり散らす僕を暖かく見守ってくれたから今の「幸せ」がある。
最高に幸せ!
 
恐らく、この繰り返しをして、死ぬんだろうけど、それでもやりたいことは全部やる!
 
いつか死ぬから、やりたいことは全てやり抜きます!
 
いつもみんな応援してくれて本当にありがとうございます!
 
迷惑ばかりかけてごめんなさい
 
最高の感謝を込めて

人生を好転させる最も大切な事

書く事、話すことで、最も大切なのは、「メモ」することです。

 

さっき、ものすごいいいブログを書けるアイディアが出ました。

 

ちょっと、別の事をやってから、書こうと思ったら「忘れました」

 

ものすごい良いアイディアだったんです。

 

思えてるのはそれだけです。

 

人の記憶ってそんなものらしいです。

 

私、セミナーに参加して勉強するのですが、

 

漫然と聞いてると、「前向きになれた」「なんかいいセミナーだった」

 

それで、終わりです。90分聞いてたのに、文章にすると1行です。

 

メモしながら聞いてたら、おそらく、どういう点が良かったのか、どのような気づきがあったのか、明確になってたはずです。

 

いい点が明確になれば、それを人生に活かせます

 

メモ

 

メモ

 

言葉にして書いておくってとても大切ですね。

ブログを書くための最も大切な事

ブログを書くために最も大切なことは

 

更新頻度を決め、その上で、必ず「期日」を決めて、その日までに書く事です。

 

 

いい作品を書こうとすると、「永遠」にかけません

 

とにかく、期日を決めて、出来る範囲で書く事です。

 

仮にうまく書けなきくても、大丈夫です。

 

皆さん、スマホを触ってるときって、そんなじっくり見てません

 

気の向くまま、アプリを開き、気の向くまま、動画を見たり、ブログを読んだり、SNSを見てます。

 

私の文章が面白いかそうでないか、「判断」するのは読者です。

 

書いてみないと分かりません。

 

自分の常識は相手の非常識、自分の常識は相手が知らない驚く情報かもしれません

 

なので、クオリティは横に置いて、期日を決めて書く事が最も大切です。

 

以前、私が、歯医者に行くのが苦手で、歯科医院に入れなかった時、

 

ひきこもった経験のある方のブログに励まされました。

 

おそらくそのブログってそんなに人気なかった気がします

 

そんなもんです。

 

なので、書き続けることが最も大切です。

 

 

 

 

 

学校教育について

学校での生徒の役目は「自己成長」することだ。

 

分からない事が分かるようになる。

 

出来ない事が出来る様になる

 

でも、学校の先生って自己成長してるのかな

 

もちろん、日々いろんな事があって学校の先生も大変だと思うけど、

 

生徒だった僕からみるとあまり自己成長してないように見える。

 

もちろん、僕が学校の先生になったら先生が自己成長しない理由もわかるのかもしれないけど

 

生徒側から見た先生と先生側からみた先生の大変さはまるで違うと思うので、ここではあまり先生批判はしたくない

 

それでも、先生って批判されやすくおそらく大変なんだろうと思う。

 

 

ひきこもりを再定義する

ひきこもりの定義を考えたい

 

 

かつて、外出しないと何も出来なかった時代がある。

 

 

買い物、仕事、遊び、コミュニケーション

 

全て「外出」する必要があった

 

しかし、今は、インターネットの登場で外出しなくても、買い物、仕事、遊び全てインターネットでも出来る。

 

ひきこもりという言葉は、外出しないと何も出来ない時代に生まれた言葉だろう。

 

今は、外出しても、しなくても、社会生活に支障が少ない

 

なら、ひきこもりに変わる言葉を探す必要がある。

 

かつて学校に行かない人は登校拒否と呼ばれた

 

今は、不登校という呼称に変わった。

 

ひきこもりもインターネットの登場で在宅で多くの事が出来るので

 

そろそろ名称を変える必要があるのではないか。

不登校・ひきこもり支援について

不登校・ひきこもり対応を考え続けてきた。

家族対応、支援者対応、働き方

コロナ禍になり、オンラインセミナーに沢山参加し学んだ。

不登校やひきこもりが社会課題と言われ何年がたつのだろうか。

多くのNPOや、支援者、家族会、当事者会が「解決」へ向けて全力で尽力した。

しかし、統計として不登校やひきこもった方は増える一方

つまり、現在の働き方や学び方の方に問題があると言わざるを得ない。

わかりやすく言えば、サラリーマンになること、同じ地域の人が同学年で集まって学ぶこと。それらに違和感を感じる方が多いという意味だろう。

制度を変えれば、不登校・ひきこもった方は減るのかもしれない。

しかし、どのような制度でも、その制度との相性が必ずある。

現在は、必ず優劣がつく、「資本主義社会」というゲーム

勝者がいれば、敗者もいる。

一定の物差しで人を判断すれば、その物差しにあわない人がいて当然だ。

つまり、どうしても学校にあわない不登校児童

どうしても現在のサラリーマンを象徴とする働き方にあわない方、つまりひきこもる方がいて当然なのではないか。

不登校やひきこもりを解決しようと支援されてる方には残念だが、

全員、今の制度の上で活躍させようという支援システムそのものに問題があると言わざるを得ない。

では、どうするのか。制度が簡単に変わらない以上、現在の制度で活躍、つまり沢山のカネを稼ぐ方法ではなく、「生きづらさ」を少しでも減らし、各々がそれなりに満足する道を模索するほうが賢明だ

繰り返すが、制度を作れば必ずそこにあわない人や、被害をこうむる人がいる。

そういった前提を忘れずに支援をしてほしいと切に願う

夜中に有料電話で話を聞いてもらった結果

なぜ生きづらさを抱えた人は「居場所」に行くのだろういつもそう思ってた

 

ひきこもった当事者たちは居場所と言われる生きづらさを抱えた人達が集う場所に交通費をかけて出かけ参加費まで払う。

 

私もかつて居場所に行っていたが、それは社会参加の訓練(外出してその場で過ごす事)の為だったような気がした。

 

なぜ、生きづらさを抱えた人が居場所にいくのか分からなかった。

 

最近、私は承認欲求という「かまってちゃん」が私の中で爆発するとあるところに電話する。

 

有料だけど、少額で話を聞いてくれる電話

 

昨日も、さみしくなって電話した

 

時間は夜中の24時

 

担当者が少なくなって、仕方なく初めて電話する人に電話してみた。

 

60代女性

 

話を聞くとひきこもり支援をしてるらしい

 

まいった

 

私は当事者としてひきこもりについてはどうしても譲れない一線がある

 

やはり、理解がないひきこもり支援者だった

 

その支援者は当事者が居場所に来たら思いっきり褒めるらしい

 

当事者は中年だといってた

 

中年にもなった当事者を居場所にきただけで褒める「こども扱い」

 

私が1番嫌ってる対応

 

ひきこもりを見下す対応

 

やはり。。。私の思った通りになってしまった。

 

お金を払って話を聞いてもらってるのに「不快」になった。

 

その不快をまた別の人に聴いてもらったけど、スッキリしなかった。

 

お金だけが消えた

 

私が感じたのが、普段私の話を聞いてくれる人、

 

私とコミュニケーションをとってくれる人がどれだけ私の気持ちを理解しようとしてくれるか良く分かった。

 

メッセンジャーアプリが苦手だから、「既読」したままでもいいよと言ってくれる人

 

外出が苦手なら、自宅まで来てくれた何人もの人

 

僕が話たいときだけ、何時間も話を聞いてくれたかけがえのない人

 

僕の唯一の得意な活動「講演」を一緒にやってくれた人

 

そんな素晴らしい人に囲まれていたことを私は「当たり前」だと思っていた。

 

ひきこもり生活が長引けば不満はたくさんある

 

働ける人が羨ましい

 

動ける人が羨ましい

 

そんな気持ちばかりだった。

 

そして、お金を払って話を聞いてもらい「不快感」が残った今思う事は

 

生きづらさを理解できない人に千時間話を聞いてもらうより

 

理解してくれる身近な人に数分話をきいてもらう事がどれだけ心を豊かにするのか

 

ひきこもり当事者として生活するなかで、その生きづらさを理解してもらえることの「喜び」を改めてよくわかった。

 

多くの理解者がいるから、ようやく生きて活動して仕事が出来る事

 

それはとてもありがたいと思う

 

しかし、理解者がいても根本的な生きづらさは解消しない

 

それでも、理解者がいるから生きていけるし、講演活動やメディア活動を通して僕の話に耳を傾けて下さる人がいるのは本当に嬉しく思う。

 

ひきこもった人が社会参加して幸せに生きる事も価値がある

 

一方で、生きづらさを抱えたまま発信することは生きづらさをもった人に合わせた社会にしてほしいといったメッセージになる。

 

このような私の発信が誰かの役に立つこと、社会に少しでもインパクトがあれば嬉しい。

 

久しぶりにブログを書いてみました。ここまで読んでもらえればとても嬉しいです。

 

そして感想をもらえればもっと嬉しいです。

ありがとうございました。

 

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ひきこもり発信プロジェクト しんます