ひきこもり経験者の日記連載『すぐそこにあること』

ひきこもり経験者のブログ「すぐそこにあること」

夜中に有料電話で話を聞いてもらった結果

なぜ生きづらさを抱えた人は「居場所」に行くのだろういつもそう思ってた

 

ひきこもった当事者たちは居場所と言われる生きづらさを抱えた人達が集う場所に交通費をかけて出かけ参加費まで払う。

 

私もかつて居場所に行っていたが、それは社会参加の訓練(外出してその場で過ごす事)の為だったような気がした。

 

なぜ、生きづらさを抱えた人が居場所にいくのか分からなかった。

 

最近、私は承認欲求という「かまってちゃん」が私の中で爆発するとあるところに電話する。

 

有料だけど、少額で話を聞いてくれる電話

 

昨日も、さみしくなって電話した

 

時間は夜中の24時

 

担当者が少なくなって、仕方なく初めて電話する人に電話してみた。

 

60代女性

 

話を聞くとひきこもり支援をしてるらしい

 

まいった

 

私は当事者としてひきこもりについてはどうしても譲れない一線がある

 

やはり、理解がないひきこもり支援者だった

 

その支援者は当事者が居場所に来たら思いっきり褒めるらしい

 

当事者は中年だといってた

 

中年にもなった当事者を居場所にきただけで褒める「こども扱い」

 

私が1番嫌ってる対応

 

ひきこもりを見下す対応

 

やはり。。。私の思った通りになってしまった。

 

お金を払って話を聞いてもらってるのに「不快」になった。

 

その不快をまた別の人に聴いてもらったけど、スッキリしなかった。

 

お金だけが消えた

 

私が感じたのが、普段私の話を聞いてくれる人、

 

私とコミュニケーションをとってくれる人がどれだけ私の気持ちを理解しようとしてくれるか良く分かった。

 

メッセンジャーアプリが苦手だから、「既読」したままでもいいよと言ってくれる人

 

外出が苦手なら、自宅まで来てくれた何人もの人

 

僕が話たいときだけ、何時間も話を聞いてくれたかけがえのない人

 

僕の唯一の得意な活動「講演」を一緒にやってくれた人

 

そんな素晴らしい人に囲まれていたことを私は「当たり前」だと思っていた。

 

ひきこもり生活が長引けば不満はたくさんある

 

働ける人が羨ましい

 

動ける人が羨ましい

 

そんな気持ちばかりだった。

 

そして、お金を払って話を聞いてもらい「不快感」が残った今思う事は

 

生きづらさを理解できない人に千時間話を聞いてもらうより

 

理解してくれる身近な人に数分話をきいてもらう事がどれだけ心を豊かにするのか

 

ひきこもり当事者として生活するなかで、その生きづらさを理解してもらえることの「喜び」を改めてよくわかった。

 

多くの理解者がいるから、ようやく生きて活動して仕事が出来る事

 

それはとてもありがたいと思う

 

しかし、理解者がいても根本的な生きづらさは解消しない

 

それでも、理解者がいるから生きていけるし、講演活動やメディア活動を通して僕の話に耳を傾けて下さる人がいるのは本当に嬉しく思う。

 

ひきこもった人が社会参加して幸せに生きる事も価値がある

 

一方で、生きづらさを抱えたまま発信することは生きづらさをもった人に合わせた社会にしてほしいといったメッセージになる。

 

このような私の発信が誰かの役に立つこと、社会に少しでもインパクトがあれば嬉しい。

 

久しぶりにブログを書いてみました。ここまで読んでもらえればとても嬉しいです。

 

そして感想をもらえればもっと嬉しいです。

ありがとうございました。

 

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ひきこもり発信プロジェクト しんます