ひきこもり経験者の日記連載『すぐそこにあること』

ひきこもり経験者のブログ「すぐそこにあること」

連載No32「大人になって感じた事 ~幼い時から見た大人たち~」

町を歩いていて、子どもを見かける。多くの子ども達は元気に遊びまた時には大きな声で泣く。


僕にも、もちろん子どもだった頃がある。もう35歳だから記憶は曖昧だけど克明に覚えていることがある。幼稚園のころ、母親が迎えに来た時嬉しくて全速力で走ったとき躓いて転んだ、結構痛かったのか僕は泣いた。まーよくある話ですよね。だって幼稚園児ですから泣くこともしばしばあった。それが小学校に進学し体も心も少しづつ大人に向かって成長していくと、免疫力がつき転んでも泣くことはなくなった。身長も伸び、学校で学び、できることも多くなり大人への階段を一歩づつ上っていくような実感があった。
            


僕の親はごくごく普通のサラリーマンだったけれど他の人とは違い毎週土曜日が休みだった。土曜が来るたびに僕は朝7時前後に起き8時には家を出て学校に行かなければならないのに、父親はようやく8時ころ起きて「いってらっしゃい」といいながらゆっくりと朝食をとる姿が羨ましかった。母方の祖父は公務員で必ず5時前には帰宅し、時には職場が近いこともあり昼休みに家に帰り昼寝をしていた。身近にそんな大人たちがいたから早く大人になりたかった。
 
 大人は就寝時間をうるさく親から言われないし、旨そうにビールを飲み、子どものこずかいの何倍ものお金を持っている。何も不満がないように見えた。
 
 先ほど書いたように幼稚園の時転んで泣いていた僕は小学生になったころには転んでも泣くことはなかった。だから大人たちはもちろん泣かないし弱い部分を子どもには決して見せない。だから子どもだった僕は大人になれば、様々な免疫力が高まり、身近な人が亡くなるとかそんなことでもない限り精神的に動じることもなく、その上、様々な権利があり自由を行使できることがとっても羨ましかった。だから早く大人になりたかった。
 
 幼い頃そんな考えがあり今、年齢が35歳、成人といわれる20歳から15年も過ぎた。
 
 心身に耐性ができ悩みなど無くなると信じていた僕だったけれどむしろ子どもだった時のほうがよかったのかなと思う。かなり前の記憶だから嫌な記憶も薄れているのだろうけど、心身共に元気でスイミングスクールに一人で通い幼稚園もめったに休むこともなかった。
 
 それが今では毎日12時くらいまで寝て最近は体調を崩したこともありだるさが抜けず、鬱々とした日々が続いている。こんなはずではなかった。成長と共に免疫力ができることにより悩みが悩みと思わない大人になるはずだった。
 
 中身も自立した大人になり精神的にも経済的にも特別な努力なしに自然に自立できるものだと思っていた。
 
 そんな経験を経て1番思うことは大人になっても中身は子どもとそう変わらないということだ。
         


僕を含めた大人たちは子ども達に対して弱みを見せないように接していると思うけど、それが子ども達がいじめられていることを言えない一因ではないかと思う。いじめられていることは弱い人間という意識が少なからずあるけれど、例えば大人でも泣きたいようなつらいこともたくさんある。別に無理をして子どもの前で泣くことはしなくていいと思うけれど、泣きたいときには泣いたほうがいいんじゃないかと思う。そうして大人が子どもと同じようにもしくはそれ以上に悩みがあるんだよと素直に接すれば子ども達も大人たちに向かって心を開きやすいのではないかと思った。