ひきこもりの定義とは
僕は市民活動『ひきこもり発信プロジェクト』を逗子で展開しひきこもりについて考え続けている。
今までひきこもりの定義や言葉そのものに注目したことはなかった。ひきこもり当事者の声に「ひきこもりという定義の曖昧さがひきこもり理解を妨げており、飢餓や貧困というわかりやすいことでさえ我々は興味を持たない」という話があった。
なるほど、確かにその通りだ。ひきこもりは一歩外にでれば、ひきこもりではない、とみられる。同じように僕のようにこうして文章を書けば、文章を書けるのだから、ひきこもりではないように見られる。
〇ひきこもりの定義
厚生労働省の定義では「仕事や学校に行かず、かつ家族以外の人との交流をほとんどせずに、六か月以上続けて自宅にひきこもっている状態、時々は買い物などで外出することもあるという場合もひきこもりに含まれる」
非常に曖昧な定義だ。僕は大学を中退した23歳からひきこもっていると自認している。中退し別の大学に入り直した。その大学はPCのみで入学から卒業まで可能な通信制の大学だから卒業できたものの、外にでる事はあまりなかった。当時から精神疾患を抱えていたので体調の波が大きく、自宅にひきこもっていた時もあれば、高校の学園祭に遊びに出かけるときもあった。そして友人は一人もいなかった。この状態なら厚生労働省のひきこもりの定義から外れる。
ひきこもりの定義が曖昧だと、ひきこもった人同士でも、「あなたはひきこもりではない」といった摩擦がおこる。当然ひきこもりということにあまり興味がない人からすれば、わかりにくいのは当然だろう。
それに引き換え、不登校という言葉はずいぶんわかりやすい。学校に行くか行かないか、それだけだ。もちろん、週に何回か学校に行く、保健室登校など多様ではあるが、不登校という言葉を聞いてほとんどの人が学校に行けない状態だと理解できる。
言語の役割は人に伝わることであり、例えば「リンゴがおいしい」と言えば、言われた人の頭の中には、「赤くて丸い甘いものを食べて旨かったのだろう」と即座に理解できる。それが言語のもつ意味にもかかわらず、「ひきこもり」という言葉は全く役に立たない。
〇無職とひきこもりの圧倒的な差異
話は戻って、ひきこもりと同じように就労してないといった言葉に、「ニート」や「無業者」または「無職」という言葉もあるが、ひきこもりとは感覚的に違う。それは僕の個人的な経験から強く感じた事だ。
あれは4年ほど前だった。僕はインターネット上で無職の彼と友達になった。
彼とは人生観を何度も議論し、僕の悩みをしばしば聞いてもらった。一度横浜で出会ったとき、なんとなく睡眠時間を聞いた。彼は「うーん働いてないから1時間かな~」と言った。そして、「お金が無くなれば働けばいいじゃないか」とも言った。前向きに無職の状態を楽しんでいるように感じた。
僕は働いてなくてもなんだか体調が悪しいし、睡眠時間は10時間。彼と遊ぶだけで消耗するのだ。
まさに、ひきこもりと無職の差を感じた。頑張っても働けない状態と働けるんだけど働かない状態。おそらくひきこもりと言われる人に彼のような人はいないだろう。そこには大きな壁を感じた。
ひきこもった人は好んでひきこもっているわけではなく、対人関係に大きく傷ついたり体調不良で仕方なく自宅に居なければならない状態といえる。それでも、体調がいいときは外出して人と関わることも稀にあるだろう。
ひきこもりとはきわめて内的な状態であり目に見えるものではない。状態が不安定であるがゆえに非常に分かりにくい。
また、生きづらさを抱えた状態であるが、生きづらさとはあらゆる困難を包括する言葉でもある。ひきこもり理解を目的に市民活動を始めて半年が経つのだが、ひきこもりという言葉の定義、意味が曖昧では、その先に何を言っても伝わらないような気がする。もちろん伝える努力はするが、「ひきこもり」と聞いた時のイメージが個人によってあまりにも違いすぎて、その先、どういう伝え方をしたら、ひきこもった人達の生きづらさが解消できるのかわからない。
おそらく世間のひきこもりのイメージは部屋から一歩も出ず親が食事をドアの前に置いておく、そんなイメージだろう。もちろんそんなひきこもりの人もいるが実態は多様だ。
今、ひきこもりに変わる言葉を僕は思いつかない。僕はひきこもり理解を引き続き進めていくが、言葉そのものとも向き合っていこうと思う。