ひきこもり経験者の日記連載『すぐそこにあること』

ひきこもり経験者のブログ「すぐそこにあること」

ひきこもり支援について思う事

『ひきこもりでいいみたい』芦沢茂喜著

 

読んでみた。

 

 

保健福祉事務所に勤務されてるソーシャルワーカーだ。

 

NHKのドキュメント番組で拝見し、強制的な支援ではなく、いわゆる「伴走型」支援だと思い、私の講演活動にも参考になるかもしれないと思い購入してみた。

 

終始、当事者に寄り添い、関係を継続し、家庭環境を整え、自立ではなく、依存先を増やすことなど、良い「支援者」だと感じた。

 

一方で、本の中に何度も出てくる「動く」という単語。

 

芦沢さんは家族相談やアウトリーチもしており、家族や当事者と対話をする。

 

対話が出来ない、当事者には、ゲームや本を使って対話をしていくと記載されていた。

 

支援者としては、これ以上ない対応だと思った。

 

一方で、やはり、支援者だなとも感じた。

 

ゴールは定めないとしながらも、支援が動くことに重点が置かれているように感じた。

 

そのため、就職や学校復帰がゴールであるかのように私は感じた。

 

それに、訪問そのものに私自身非常に嫌悪感を感じた。

 

確かに、ひきこもりは楽ではないし、困りごとかもしれない。

 

家族は心配するだろうし、本人は、動きたいけど動けない葛藤を常に抱えている。

 

そういった環境のなかで、本人が好きなゲームや本をツールにしてコミュニケーションのきっかけにしながら支援するというのは、仕方がないのかもしれない。

 

しかし、ひきこもり当事者の私は納得ができなかった。

 

強い言葉を使ってしまうが、あくまで、マンガやゲームは餌のようで、最終的には就労など、段階的な支援を行うためにツールのような気がした。

 

ひきポスや経験者が書いた文章には、心から共感し、読むだけで「回復」つまり、私の気持ちを理解してくれたような感覚になるのに対し、

 

『ひきこもりでいいみたい』という本はやはり、支援する人と支援される側に分断され、支援者はあくまで当事者を変えようとする。社会に適応させるように、誘導するように感じられた。

 

こうして書いて著者の芦沢さんには申し訳ないと思う。家族が困り、本人も程度問題であれ、困ってるのである種の介入は必要かもししれない。

 

そのために、ゲームや本、マンガをツールにコミュニケーションをはかり、本人を社会に適応させるというというのは、支援者としては普通だと思う。

 

しかし、本書にも言及されているように、私を含め本人達は介入されたくないと思う。

 

例えば、未婚の人の親が子どもを結婚させたいから支援者を自宅に呼び、未婚の本人を説得する。

 

例えば、勝手に、商店街の今にも閉店しそうなお店に入り、「経営コンサルティング」しましょうか。

 

そういった提案を素直に受け入れてくださいといっても、本人達はどうだろうか。

 

確かに、未婚の方や閉店しそうな商店は、結婚しなくても生きていけ、商店が閉店しても新しい仕事を探せばいいのかもしれない。

 

 

ひきこもりという状態は、依存先が親しかなく、選択肢が少なくなった状態であるため、親の介護や親の死後、経済的に困窮することが問題であるかもしれない。

 

しかし、消極的選択であれ、「ひきこもり」という選択を取らざるを得ない人にとって、再び社会と接点を持つというのは、非常に苦しい選択であるし、かといって現状にも不満がある。

 

そういう意味では、芦沢さんの方法ー家庭環境を整え、本人が楽になるような支援ーはいいのかもしれない。

 

しかし、繰り返すが、ひきポスや経験者が書いた文章は優しい。

 

それは、社会と相性が悪いことを繊細に訴える当事者。つまり、障がいでいう社会モデルの構築という方向で書いてくれてるように感じた。

 

一方で、支援者は個人モデル、医学モデルつまり、本人を変える方向だと思った。

 

本人が好んで変化するには問題がないが、そこにどの程度、介入すべきかは非常に難しい問題で、介入すべき問題であるかもしれないが、本人は介入してほしくないが困ってる。

 

その点何もしない居場所は非常に好ましいと感じるが、そこにたどり着けない人達もいる。

 

本書にもあった「答えのでない問題」

 

(そもそも、問題という言葉が好きではない)

 

現状、私にも答えがない。

 

社会はすぐには変わらないので、個人が変わる方向というのは間違ってはいないが、そこに支援者という他者がどの程度介入すべきなのか。考え続けていかなければいけない社会的な課題。