ひきこもり経験者の日記連載『すぐそこにあること』

ひきこもり経験者のブログ「すぐそこにあること」

連載No40 両親への想い~『ありがとう』~を聴いて

〇半年間における心境の変化
このエッセイをまとめた冊子の改訂版作成にあたり改めて「すぐそこにあること」バックナンバーを読んでいた。以前、「最高だ!と思った家庭環境?」に「家庭では僕の思うようになるけど、外ではそうはいかない。」と書いていた。
 


 これは2015年11月号だから、これを書いていたのは2015年10月だった。おおよそ半年前。当時はインパクトがあって我ながら素晴らしい出来だと考えていたが、今振り返ってみたら、環境の良い家庭にしてもらっている両親に感謝の気持ちがないと思っている。

 〇謙虚な姿勢に胸を打たれた!
数年前の事、地元逗子海岸で音玉(OTODAMA)というライブハウスで海水浴のシーズンに連日夏フェスが開催されていた。Sayu(サリュ)というミュージシャンが好きで一度音玉に行った。後日スキマスイッチも音玉にて演奏するとネット上で知ったので、当日券があれば行ってみたいと思い逗子海岸へ行ってみた。スキマスイッチは人気バンドだから当日券はなかったけれど、音漏れを外で聞いていた。
 
 その時、大ファンであるミスターチルドレンのカバー曲を演奏し、それに深く感銘を受けた僕はその日を境にスキマスイッチの大ファンになった。そしてベスト盤を買い、そのベスト盤を聞きこみ、ますますスキマスイッチの音楽に圧倒され、のめり込んでいった。
 


 LIVE映像のなかのトーク部分でスキマスイッチボーカルの大橋卓弥(以下大橋)の謙虚さ誠実さに僕は好感を抱いた。大橋のソロ活動「ドランクモンキーズ」を知り、CD・LIVE映像作品を購入した。LIVE映像の中で、大橋のMCに心を打たれたので紹介したい。

 〇新たな決意
 大橋が18歳の時どうしてもプロのミュージシャンになりたいと両親に相談した。そうしたら、猛反対され、音楽で生きていくのは本当に難しいので、安定した就職先に就きなさいと両親に説得された。それでも大橋本人の意思は固く、両親を説得するために当時高校生だった大橋はアルバイトをして、いくばくかのお金を貯めそれを両親の前にみせて、「これで東京に行って音楽をやらせてほしい」と懇願した。そうしたら大橋の親は「条件がある、ダラダラ音楽をやるのはダメだ。10年と期間を決めてもし28歳の時に音楽で食べていくだけの力がなかったら、定職に就きなさい」と言われ両親の許しを得た。

そして、大橋は東京へ行った。しかし、もともと厳しい家庭だったせいか、大橋は朝まで遊んでおり音楽と真剣に向き合わなかった。そういった経緯で地元の時から組んでいたバンドは解散してしまった。その後出会ったのがスキマスイッチの相方である常田真太郎。二人でこつこつ努力をして、ようやく26歳になった時メジャーデビューを果たしCDをリリースした。その時、大橋の親からメールがきて「誕生日おめでとう。間に合ってよかったね」と書いてあった。大橋は「なにが間に合ったのか」、10年間という両親との約束をすっかり忘れていた。だけど「両親はずっと見守ってくれた」その時、深く感謝の気持ちがわいてきた。と言っていた。
 
そうして出来た曲が『ありがとう』。両親への感謝の気持ちを目いっぱい歌詞にした曲だ。両親に恩返ししたい気持ちと、これからは大橋本人が両親を支えていくといったシンプルだけど、想いの詰まった歌。先ほど書いた大橋の歌に込める想いを聞いた後、曲をきいた僕は涙を流した。と同時に、僕を経済的に支えてくれた父親の存在。家事を毎日何もいわずにやってくれていた母親に申し訳ないという気持ちと今まで支えてくれていた事を特別なにも思わず、冒頭にも書いたように、恵まれた家庭環境に疑問を抱いていた僕を恥じた。
 
 お金を稼ぐことは決して楽なことではないし、家事と一言で言っても大変なことだ。
 
 そんな感謝の気持ちは、「近い将来親のすねかじりをしている生活にピリオドを打とう」という決心につながった。
      〇両親への想い
ここで、僕は働いて親に恩返しすると書けばかっこいいし、読者の期待に応えるのかもしれない。言い訳じみるけど、僕は働いた経験もなく、すぐ、両親に僕がこれから支えていくといったかっこいい事はとても今の僕にはできそうもない。


しかし幸運にも様々な人から働く道を提案してもらっている。そろそろ両親に「楽して暮らしてね」と言えるような大人になり恩返しをしたいなとふと考えた曲『ありがとう』だった。