ひきこもり経験者の日記連載『すぐそこにあること』

ひきこもり経験者のブログ「すぐそこにあること」

連載No50「絶望のひきこもり体験」 2018年3月1日

ようやく大学に合格した。4年遅れの大学生。僕が志望していた大学とはまるで偏差値の違う学校だったけど、ここから頑張れば同級生たちと遅れを取り戻せるのかもしれない。そう考えていた大学合格の瞬間だった。しかし、そう考えていた大学生活も、つかの間であり、次第に電車に乗ることの恐怖感と大学の教室にいるだけで不安感は高まっていき、自宅にひきこもった。それまでの経緯を今だから言えることを書いていく。

両親による責任転嫁の発言
はじめての不登校は小学校6年生の時だった。とくにいじめにあっていたわけでもなく、学業成績の不振はあったが、それなりに順調な学校生活だった。突然精神的に苦しく不調(具体的に書きたいけど、思い出すだけで具合が悪くなるので省略)が続き、6月くらいから夏休み明けまでの間、学校に行けなかった。当然親は慌てふためき、当時は現在のような不登校児童が通う居場所もなかったので、小児精神科へ連れていかれることになった。その後も夏バテと共に体調はさらに悪化し食は喉を通らず、点滴を打って過ごす、まさに寝たきり状態の日々に突入した。

僕が不登校になった時、両親の仲は険悪だった。父親が母親に向かって「お前が習い事を無理強いさせるから不登校になったんだ」そんな不安と怒りをもって発した言葉があった。僕に習い事をさせた母親になにも言ってくれなかった父が息子の不登校をきっかけにそのような発言、つまり責任放棄の言葉と両親の不仲を僕は胸が痛くなった。

その後、体調不良の解消により夏休み明け学校復帰を果たした。

二度目の不登校は中二の6月だった。きっかけは、ホームシックになるのが嫌で修学旅行を仮病を使って休んだ事だ。

中学入学当初から、からかいにも近い、いじめを受けていた。例えば、音楽の時間、教室を移動するのだが、リコーダーが入った巾着袋と教科書はいじめっこの手によってサッカーボールのように蹴られ、それを僕が一生けん目追う。いじめるほうは、僕が一生懸命追う姿が面白かったのだろう。そんな人に囲まれて学校生活を送ることがかなり辛かったし、親や担任の教師には“いじめられていることを恥ずかしくて言えなかった”。

そんないじめられていた経緯があったので、余計に修学旅行明けに学校に行けなかった。「このまま学校に行ったら、どれだけ問い詰められ、それを材料にいじめがエスカレートする」そんな事はわかりきっていたからだ。

僕が不登校になった1994年は、まだ現在のように、不登校児童のための居場所は、ほとんど存在せず、当時僕が認識する不登校児童は世のなかに存在しないことになっていた。そんな孤独な想像が僕を絶望へと追い込んだ。

そして、親に無理を言って転校させてもらい転校先の中学校の同級生が快く僕を迎えてくれた。転校先の学校でうまくやれる自信なんかまったくなかったけど、無事に転校先で1日を終えた。しかし学校へ通うモチベーションは存在しなかった。なぜなら、学歴が職業を決めるほど重要なことをまったく知らなかった。もちろん学校は行くべき場所ではあったが、前校のいじめにより対人関係の不信にあった後、同級生の言葉―新舛くんと友達になりたいーが信じられなかった。
 
 結局不登校になってしまい、何度も同級生が我が家にプリントを持ってきてくれたり、手紙を持ってきてくれたりしたが、どうしても不登校である自分を隠したい、同級生にそのような姿を見られたくない、そういった理由で僕は頑なに同級生とは会わなかったし、会えなかった。

卒業式にも学校へ行かず高校進学もせず、ひきこもり生活に突入した。

ひきこもり生活の中で唯一趣味であった自動車はかなり僕の興味を引いた。それが僕を洗車に夢中にさせ、車の雑誌を読むようになり、雑誌に書いてあった政治対談まで興味をもった。学校へ行ってないので当然、内容を理解できず、その雑誌の内容を理解するために、家庭教師を雇ってもらった。その家庭教師が偶然「勉強が好きな人」であり、その教師が目を輝かし政治・経済を皮切りに勉強の魅力を語ってくれた。それが僕を勉強へと興味を導かせてくれ、政治・経済を学んだことをきっかけに、ジャーナリストへの憧れをもち、そのためには大学進学が必要だということが理解できた。どうして僕がこんなにも純粋に勉強できたのか、なぜ家庭教師の言葉に魅了されていったのか。それは進学・就職に関し両親が完全に諦め、僕にそのようなプレッシャーはおろか一喜一憂することさえしなくなった。親のプレッシャーがない生活がエネルギーになり蓄積され満たされていった。だから好きなことに夢中になれたし、学歴とか体裁とは関係なく純粋に政治経済を学べた。そこから通信制の高校へ進学し大学進学を果たすのであった。

ただ不登校、ひきこもりから昼夜逆転の生活と体力の著しい低下、人間関係の空白により道のりは険しかった。生活のリズムを取り戻すために大好きな車の免許取得へ努力し、1日10分のウォーキングをスタートさせ、次第に20分、30分と増やしていった。昨日の自分より今日の自分が明らかにバージョンアップされることが本当に嬉しかった。

体力の回復と生活のリズムを整えたが、まだまだ午前中に起きて行動する事と、電車に乗って高校通うことが不安で仕方なかった。それでも前に進めたのは主体的にここまでやってこれたからであり、決して親に言われたからではなかったことが大きな要素である。午前中に90分の授業を週に2回程度通えば卒業のめどがつく通信制の高校を自分でみつけ、高校がある横浜まで通う決心ができるまでそう時間はかからなかった。

その後、僕は大手予備校を中心に一生懸命勉強し、勉強するための体力をつけるために、真夏の炎天下に自転車を2時間くらい駆け回った。そんな努力の甲斐もあり、勉強時間も徐々に長くなり学力の向上を図れた。しかし、不登校になり圧倒的な学習のブランクがあり、大学受験に必要な国語と社会はなんとかなったが英語だけはいくら勉強しても大学受験レベルに到達せず、結果、憧れの大学は受験することさえ許されなかった。そして冒頭にあるように4年遅れで大学生活をスタートさせ、ようやく同級生と同じ位置がみえてくるような景色に立ち、ここから頑張ろうと思えた。

〇絶望のひきこもり体験
そういった心境、モチベーションを見事はその後の精神不安により打ち砕かれ大学通学はおろか、不登校から努力して得たものはすべて水の泡となった。ここにひきこもりの辛さが集約されるように感じる。今迄、できた事が出来なくなり、それまで積み重ねていったこともまったく無駄になる。それは絶望体験であり、どうして自分はこうなってしまったのか、なぜ、体が動かないのか、理由がわからないだけに、努力不足かと疑心暗鬼に陥りすぐ立ち直ることもできず、真っ暗闇だった。本当にあの時は苦しかった。

〇同じレールに戻ることへの拒否感
こういった経験を経て偏差値を端に発したあの競争に参加するのは二度と御免だ。今でも働けない理由の一つに、再び同級生と同じレールに戻ることが僕にはできない。だがしかし、働かない事には将来はない。
 

 ・50です。ここまで書けたのは毎月300通以上粘り強く発送してくださった滝田さん、毎月心温まる感想をくださった岩室先生、そして読んでくださった皆様のおかげです。心から感謝致します。ありがとうございました。まだまだ書き続けますので宜しくお願い致します。