ひきこもり経験者の日記連載『すぐそこにあること』

ひきこもり経験者のブログ「すぐそこにあること」

連載No44「全ての親へのメッセージ」 2017年8月1日

〇ひきこもり親向けの講演会にて
6月24日リロード理事長武藤さんのお招きでひきこもりの親の会にて講演をしてきた。
 
 僕は5月もKHJ(全国ひきこもり家族会連合会)横浜支部にて1度話しをしたからその経験を活かし、ひきこもり当事者の親はどういう対応をしたら当事者にとっていいのか、そこに焦点をあてて話をした。
 
 話は、僕が不登校になったきっかけ、学校に行かない事により親や教師の命令に解き放たれ主体的に車の洗車や興味のあることを勉強した喜び、そしてマスコミに憧れ通信制の高校へ進学しさらに予備校に通い大学受験を経験した。大学進学後、電車に乗れなくなり本格的なひきこもり状態に入っても、地元の高校の文化祭に行ってみたら、生徒の主体性に感動しあちこちの文化祭に通った。こういった主体的行動や他者の主体的行動により夢中になれることを話した。


僕は子どもの主体性を尊重し、子どもを信頼してほしいと訴えた。部分的には理解してくれたものの、結局子どもが就職し、経済的に自立しなければ納得しないということがよく分かった。


例えば、ある当事者は美術館めぐりが好きで、美術館に行く時だけは早起きができる。また、マラソンはするのだから体力を活かし農業でもしてくれればいいのに。さらに、3食しっかり食べるのに働かない。


このような意見を聞いて、僕は本当に残念に感じた。親は子どもが幸せになることを切しているのではないのか。それとも、親の言うままに行動すればよいのか。


そんなことを考えていた矢先に、当事者の想いが詰まった「ひきこもり新聞」に親子関係についてとても共感する記述があった。


いわく、ひきこもりの人にとって“こづかい”がないと生活できない。そのこづかいは親から貰うものだ。結果親の顔色を窺わないといけない状況にあった。その状況から、親は自分が就職に結び付く行動をすると喜び、まったく関係のないゲームや趣味に打ち込んでいると嫌な顔をする。そういった親の態度をみて自分は愛されていない。世間体のいい子どもがほしかっただけではないのか。ということだった。


おそらくこういうことを当事者の多くが感じているのではないか。だから満たされない日々を送っている。


ひきこもりとは親以外の関係が極めて希薄になる状態である。そして自分で自分を認められない状態。そんな時期に唯一そばにいる親に“否定”されたら、誰が承認してくれるのか。そういった満たされない状況でどうしてひきこもりから抜け出せるというのか。

〇ありのままの子どもを承認する
話は再び親の会に戻る。質疑応答の際、僕がまだ自立に至っていない状況をみて、「あなたは親の死後生きていける覚悟はあるのか」と問われた。僕は正直に「ない」と答えた。
 
これも結局、親の自己満足であり、子どもを見ていない発言だと思う。こういう事実を突きつけられているのは当事者であり、言われなくても十分理解している。だけど自立できないから困り生きることさえ諦めようとしているのだ。だから近くにいる人、つまり親にありのままを承認してほしいと願うのが僕を含めたひきこもりの人の本音だと思う。
こういった親の考えは親自身も苦しめる。仮に子どもがアルバイトをしたら、つかの間の喜びはあるかもしれない。しかし、次第に安定した職すなわち正社員にでもならないと納得せず、正社員になっても、次は結婚という具合になるだろう。


現在、多くのひきこもり当時者が長くひきこもりから抜け出せない。親の死後の問題はひきこもりの人たちの共通の課題だ。僕も当然親の死後の不安はぬぐい切れない。でもそんな先の事を心配し、親子関係が悪化するよりも、良好な親子関係を築くほうが先なのではないか。
 
 ひきこもった子どもにとって親はとても大切な存在であり、親の言動によって子どもが変わる可能性を持っていると僕は思う。だから親は子どものこと世間体抜きに愛してほしい。そしてその愛情をわかりやすい言葉で伝えてほしい。就職しなくたって、自立しなくたって、かけがえのない我が子のはずだから。