ひきこもり経験者の日記連載『すぐそこにあること』

ひきこもり経験者のブログ「すぐそこにあること」

連載No46「[居場所が作る休めない雰囲気とは」 2017年11月1日

〇未だ消えぬ後悔
アンガージュマンのような居場所があればよかった」これが僕の口癖だ。僕が不登校だったのはおおよそ24年前。当時は現在のように不登校生徒の居場所が少ない(ほとんどない)時代だった。
 
 僕がこども若者応援団に所属し、最初に話したのは不登校経験であった。「不登校の原因はいじめだった。教師にも裏切られ人を信用できなくなった」そして「修学旅行に行けなかったことをきっかけに、不登校へ突入した。その後、勉強はいくらでも挽回できたけど、対人関係は未だに苦手で、苦労してる。今ではアンガージュマンのような不登校の居場所があるから羨ましい」確かそのようなことを話した。

〇“居場所”がこどもを追い詰める?
近頃、仲良くしている友人と話した際に「居場所があることが、かえって子どもを追い詰めているのではないか?」そんな話を聞いた。居場所は義務教育とは違い、通うのも、通わないのも“自由”なはずだからなぜ子どもを追い詰めるのか全く理解できなかった。


友人の話を僕なりに解釈すると、学校へ行かない選択肢を取るというのは相当覚悟がいる決断で、その選択肢(不登校)を選んだ子どもは少なからず疲弊している。そのような状況化で親に居場所へ通う事を提案される。“不登校”というぎりぎりの行動をとったのに、またどこかへ通わなければならない。昔のように居場所がなかった時代は自宅でゆっくり休んでから自分のやりたいことを考えることができた。
 
 僕はそんな話を聞いて驚いた。冒頭に書いたように、もし不登校だったあの時、学校以外の居場所があれば、人との関係性を通して僕の人生は大きく変わったのではないか、(人との関係性がスムーズなるとか、就労もしているのでは、精神疾患にここまで悩まされることはなかったのかもetc)という後悔を常々もっていたからだ。
 
 居場所のデメリットなんて考えたこともなかった。
 
 物事にはポジティブな面ではなく、ネガティブな面も当然あるから今までの僕の考えが狭かったのだろう。しかし、居場所が不登校になった後の選択肢ではなく、義務教育と比較対象としての存在、つまりAという学校とBという居場所を誰もが同じ視点で積極的に選べるようになればデメリットは解消するのかもしれない。
 
 そもそも学校で行き詰る大きな要因は一定の生徒を同じ場所に集めることにより、結果として相性の会わない人たちがトラブルを起こし誰かが犠牲になる。それを打開する策は一つしかない、そのコミュニティーから出ることだ。
 
 こういった制度の問題はすぐに変えることは難しいだろう。誰もが今のコミュニティーから出ることは可能だが、その後、居場所や別の学校に通うとなると交通費などの費用負担の問題、学区制度による限られた範囲の中での転校といった諸処の問題により社会人が転職、起業をするほど容易ではない。


仮に居場所が文科省の元に制度化されれば、学校と同じような仕組みになってしまう懸念があり、現在の居場所の解放感が確実に失われるだろう。

〇全ての子どもが幸せになる方法
義務教育を受けている子ども、すべてが幸せになれる制度設計は非常に難しい。そのため子どもがどのような場にいようと承認される。そんな穏やかな社会風土であることを願う。その中でどうやって未来の宝である子ども達の幸せを目指していくのか。僕らこども若者応援団でこれからも考えてゆく。